OBからの寄稿 (セーリング30周年誌より)


<セーリングクラブ30周年によせて>

セーリング30周年おめでとうございます。

卒業から20余年、合宿所の砂ブトンや便所のニオイ、肉屋のコロッケの味、ポンコツリアカーの重さもすっかり昔の事になってしまいましたが、今は「釣りオヤジ」として乗合漁船から大浜や470を見るたび懐かしく当時が思い出されます。

我々第5代は創設者の皆さんが社会に出られた直後、クラブの創世期の匂いがまだまだ残る時代に葉山での3年間を過ごしました。

今、当時の主将として振り返り、最も良かったと思うことは「事故無く過ごせた」という一点に尽きます。私自身も含め何度となく危ない目に遭いましたが、事故に至らなかったのは「運が良かった」としか言い様がありません。高校でのヨット経験者がおらず、何とか上手くなりたい一心で真冬や春先の海にレスキュー無しで出たり、夏場のドン吹きの中,練習を強行したりと今思うとゾッとする事ばかりです。海の怖さは現役の皆さんが一番実感されている事とは思いますが、今後、クラブがどのような方向性を持って運営されるにせよ一番に「安全」を考えて頂きたい。その為に日々腕を磨き、装置・備品に投資を行うというスタンスが最も重要なのではないかと思います。

私は軟弱にも釣りに転じましたが、形はどうあれ海やヨットとは一生付合えます。

現役の皆さんにはそのスタートとしてのクラブ生活を存分に楽しんで頂きたいと思います。

現状、クラブの運営に色々とご苦労が多いと聞いていますが、再び大浜沖で「イコーゼ!」の大合唱が聞ける事を楽しみにしています。

5代 牧野 廣策

 




記念誌作成事務局の皆様、ご尽力ありがとうございます。

わがWSCも30周年とのことで驚きを覚えるのですが、でもある意味「当然」との一種の誇りにも似た思いを持つのは小生だけでしょうか?

そもそもの特色であるヨットのマニアックさ、海と太陽と風というビジュアルなシチュエーションに加え、WSC独自の良さである御用邸眼前のホームグランド、葉山公園、初任者からでも技術習得できる一種の伝承されたノウハウ、そしてこれら非日常環境の中で育まれるチームワークと生命力。振り返れば「早稲田大学」ということ以外は全くの「ノーブランド」であるWSCが存続してきたのも、これら唯一無二の魅力があってのことでしょう。

最近は再び部員不足に悩まされているようですね。このクラブに価値を感じるか否かはいつの時代も個人差が大きいものです。今の現役の皆さんは既にその何かを感じ取った人たちでしょう。

きっとこのクラブは何があっても存続すると信じています。

時折り我が子とともに葉山に来てはカニ取りをして遊びます。大浜を見るたびに勝手に「俺の浜」などと呼んでいます。卒業後約20年弱が過ぎますが、相変わらず“WSCバリュー”は小生の中にしぶとく生き続けています。

                             10代 飯島 圭一郎

 




早稲田の春といえば、何といっても入学式の週に繰り広げられる、サークルの新入生争奪戦だろう。新入生は、あの早稲田名物の儀式をくぐりぬけ、膨大な選択肢の幅を見せ付けられてしみじみ「ああ、自分は本当に早稲田大学の学生になったのだな」と実感する。

ヨットをやろうと最初から思っていたわけではなかった。というより、何のサークルに入りたいかなんて見当もつかなかった。どうやって早稲田セーリングを見つけたのかは、はっきり思い出せない。偶然かもしれない。どうやって見つけたにせよ、私は試乗会に行き、新歓合宿に参加し、大して悩むこともなく当然のようにセーリングに入った。そして大袈裟な決意もなしに、当然のように4年まで続けることになった。

暗く寒いうちに「起床〜」という声で起こされ、寝ぼけたままマストを担ぎ、リアカーを牽いて浜まで歩き、陽のあるうちは一日海に出、夕暮れと共に浜に戻ってマストを倒し、舟を洗い、片付ける。夜は分刻みで順番にお風呂に入り、明日の準備をし、「ルパン」を見たらミーティング、そして砂のザラザラする湿った布団で寝る。翌日も、翌週もそれを繰り返す。今振り返るとよくあんな生活が続けられたもんだと思う。

 

「大学時代もうちょっと真面目に勉強していたら、もう少しマシな人間になっていたかもしれないなあ」と思うこともある。その一方で、こうも思う:あんな大学時代を送ったからこそ、今の自分があるのかもな、と。「何の得にもならないことを、とにかく一生懸命やる」ということは、究極の贅沢であり、それ自体が学習だ。そこから人は、無意識のうちに得がたいものを得ている。

セーリングの生活で得た、得がたいものはいろいろある。第一には、「ほとんど兄弟」と思える先輩・後輩・同期たちだ。入部直後、先輩の誰かが「このクラブには人間関係ないから」と言っていたのが何故かずっと印象に残っている。ある意味それは本当だった。年間100日近く寝起きを共にし、機嫌がいい日も悪い日も常に朝から晩まで傍にいて、肉体的・精神的にしんどいことや情けない経験も全て分かち合い・・というのは、通常の「人間関係」の範疇外のことだ。大学4年間を通してあの合宿所で過ごした時間は、学校で過ごした時間より、家族といた時間より、他のどの友達と過ごした時間より長く、また濃かった気がする。そして、私が4年間もあのストイックな生活を続けられたのは、そこに一緒にいた人たちに恵まれたからだ。そうでなければ、続けられたはずがない。セーリングの仲間をさす時、「友達」という言葉はどうもしっくりこない。私たちは、もっと違う関係だという気がするのだ。

最近読んだ文献にこんな理論があった:「人間の幸せ度というのは、その人がどれだけ寝食忘れてものごとに没頭できる人間であるか、どれだけ気持ちのいい瞬間を過去に経験してきたか、どれだけ目標に向かって努力し苦しんだことがあるか・・・ということと深く相関関係がある」。人間は、過去に何かの目標のために没頭し、苦しんだ体験を後から振り返る時、喜びを感じるものだ、というわけだ。「あのときはよく頑張ったな」、「しんどかったけど充実していたな」というように。そして、そのような過去の濃厚な熱中体験の記憶は、のちに人生の全く違う局面で支えになり、辛い場面での底力になってくれるという。

私たちはこれから先の人生で、何度となく、あの廃屋寸前の合宿所での時間や、風に吹かれ飛沫を浴びて海の上を走った沢山の瞬間や、舟を牽いて佐島から大浜まで歩いた夜のことを思い出すだろう。やはり、どうやら私は、「あんな大学時代を送ったからこそ、今の自分がある」と思っているらしい。

14代 渡邊 裕子






復活への願い

2005年、クラブの存続がまたまた危うくなった。10年ちょっと前、自分達の頃もそうだった記憶と重なり、当時顧問の市村先生が常々口にしていた「撤退する勇気を持て」という言葉がなぜか脳裏を反芻する。

その年の夏が終わった頃、現役主将から「また一人辞めそうです。クラブの存続意義が、、、」と重苦しいメールをもらった。そんな時、僕たちOBが簡単に出来ることって金銭援助ぐらいしかなく歯がゆい気分が残ったことを覚えている。一方で、夏のOB会で決定した創立30周年記念の話も徐々に現実味を帯びつつあり、OBのクラブに対する思い入れと現役のそれとに乖離が広がっているのも感じた。

現役主将からの重苦しいメールを読んだので、さすがにいよいよ最終局面かと感じこんな内容のメールを返信した。

「早稲田セーリングは同好会です。体育会ではありません。ヨットを楽しみたいと思う人が集い作った場所です。だから、今活動している君たちでクラブの存続を決めてください。OBへの遠慮は要りません。」

他にも補足して書いたけど大体こんな感じの内容を伝えたと思う。そしてメールなので語気が強く伝わってしまい変な誤解を生まない様、自分なりに言葉を選んだ気がする。

送信をクリック後「来年から大浜に戻ることも合宿所も無くなるのかなぁ、、、、」と学生にタイムスリップする場を失ってしまった気がして急に切なくなった。

数週間経って主将から一通のメールが来た。僕には数パーセントの期待だったけど、「クラブの存続を皆で話し合って選択しました」と書いてあった。素直にうれしかった。

05年冬、こんなやり取りがあったことを誰にも伝えてはいなかったけれど、OB達が動き出した。“何の為の早稲田セーリング、誰の為の30周年記念、学生にしてあげることって何?” 数名の同じベクトルを持った人たちの動きが急に加速し大きな渦になった。少しずつ、まだまだ通過点ではあるけれども取りあえずのゴールが見えてきた気がする。

もうすぐ4月。新入生が期待と不安いっぱいに早稲田の杜にやってくる。このうちいったい何人が大浜のあの合宿所で過ごすのだろう。出来ればたくさんの新入生がクラブに入って活気ある合宿所、大浜、連盟が復活して欲しい。

30周年というクラブの節目にOBとか現役とかそんな小さな壁を取り壊し、本当の意味でのヨット同好会になる準備がようやく揃ったと思います。そしてクラブ存続を選んでくれた後輩たちにも金銭的援助だけでない何かが少しは与えられたかなと思います。

             

最後に、準備に携わってくれた人、30周年記念パーティに参加してくれたみんな、新入生、そして28代の岩佐さんに感謝します。

早稲田セーリング最高!

2006年3月26日 17代主将 服部 祐太

 


21代主将 立田 純一

22代主将 石川 賢一

二人併せて「石田 純一」連名

「団体」

なぜ、あんなにも早稲田セーリングに夢中になったのだろう。

なぜ、これほどに、早稲田セーリングの経験が、我々の糧になっているのだろう。

始めは、淡い学生生活を想像していた。いつしか、ストイックな練習の日々がくるとは露知らず…。全て19代主将、新田耕平が轢いたストーリー。

 

誰もが憧れるマリンスポーツ、ハイソサエティーなイメージのヨット、早稲田セーリングの門を叩いたきっかけは、そんな軽いものだった。

或る日、合宿所での飲み会の時、新田さんが語る早稲田セーリングの歴史。

廃部の危機にあった早稲田セーリングの伝統、ヨット連盟でも中核的な存在であった事、先輩達が、どれだけレースで勝ちたかったか。

やっと、戦う意味が判った瞬間だった。

その辺りによく居る学生のように、バイトと恋愛に勤しんでいれば、違う人生もあったのかも知れない。セールトリムの代わりに、与えられた勉強をしていれば将来を見据える事もできたのかも知れない。

我々も、そんなポテンシャルを持った、ある意味で平均的な早稲田生として入学していたのだと思う。

最初からヨットがしたかった訳では無い。

偶然。

大学から始めたとしてもトップを目指せるスポーツ。チームプレイ、特にスキッパー・クルー間の言葉にならないコミュニケーションが最重要。

そんなヨットの魅力に惹かれ、集まった仲間達の事が大好きになってしまったというだけだったのだろう。

そしていつしか、連盟レースで勝利することが、ヨットと早稲田セーリングへの自分の想いを表現する唯一無二の一方法だと思うようになった。

 

「最強早稲田セーリング」。

弱小だった部が、口にするのもはばかれるこの言葉を意識しだしたのは、1997年の芦名杯での圧勝から。長期に亘ってご無沙汰だった団体表彰、団体優勝。団体の壇上で何をしていいか判らず、また校歌も知らず。何故か当時のトレンディードラマ主題歌を歓喜と涙で歌い上げた。途惑った栄冠だった。

1998年。芦名杯勢いも手伝い、21代の時代には、連盟でも強豪の一つに数えられるようになっていた。秋の草レースでの圧勝。連盟レース団体での優勝候補筆頭と呼ばれるまでになった。が、秋連盟では、たった2レースしかなかった本番での壁は厚く、志果たせず。自分達の総力を出し切り、悔いのない戦いをした最後の春連盟レースでも、団体3位入賞に終わった。悔しかったが、嬉しかった。複雑なあの感情。
「団体。全員。チーム。この全てで勝ちたかった。」
この気持ち。現役当時を、今振り返れば、この入賞は金字塔だったのかも知れない。想いは、先輩から受け継ぎ、後輩へ繋げる。19代新田さん等が自らの勝利を犠牲にし投資した結果出来上がった早稲田セーリングが、機能していると思う瞬間だった。

1999年、代は代わり22代。先代からの技術、意思を引き継ぎ、「22代で歴史を昇華させる」。見ていたのは「団体優勝」、これだけ。この想いは幸先良く成績に現れ、デビュー戦でもある春の草レース、続く夏の草レースでは、他を寄せ付けぬ団体優勝。先代からの願望だった連盟レースでの優勝は目前だと誰もが思っていた。然し、現実は厳しく、夏連盟で団体準優勝。

その後に行われた秋の2つの草レースでも団体優勝を果たし、近年の集大成とも言えるほど、確実な成長を見せていたものの、秋連盟レースでも団体準優勝。決死の想いで望んだ春連盟レースも、結果団体準優勝に終わった。

結局、22代でも、近年の夢であった「団体優勝」は果たせなかった。
ただ、21代、22代で、チームは確実な進歩を示し、「早稲田セーリング」は、連盟内で確固たる地位とリーディングチームとしての存在感を確実なものとしていた。

「勝ちたかった、本当に悔しい。本当に楽しかった、充実していたが、やはり心底悔しい。」毎年の事なのかも知れないが、21代、22代の引退式での幹部達の涙は、本当に純粋だった。この純粋さが、23代以降の栄光に繋がった。ちょっと勘違いクサイかも知れないが、我々はそう思っている。23代夏の連盟レースでは、待望の連盟レース団体優勝。合宿所の賞状からの記録でしか無いが、おそらくこれは11代以降の快挙。また、23代は主将艇が連盟レースでの個人優勝を果たした。24代でその強さは更に輝きを増し、全ての連盟レースで団体優勝を果たすという圧倒劇を演じた…。

 

長きに亘って繰り広げられた早稲田セーリングの一つのストーリー、団体を追い求めた歴史は、ここで一つの結びを迎え、新しい歴史を歩み始めたのだと感じている。

「団体」。

ヨットに限らず、日本に数ある数多のクラブ、企業、集合体で、本当の意味でこれを具現化出来ているものは一体どれ程あるのだろう。又、おそらくそれは、赤の他人同士が形の無い、利益でも無い何かに価値を見出し、赤の他人同士だからこそ生まれる家族以上の一体感を以って突き進んだ時に、初めて生まれる意識であり、具現化するにはとてつも無く難しい意識であろう。

が、早稲田セーリングにはそれがあった。

とは言え、それを生み出すのに如何なる苦労をしたのかと言えば、思いつかない。思い出すのは、決まって、合宿所のお馬鹿なノリ、笑い声。練習が終わった後の、テンダーを持ち上げる為に集まる、大浜で夕陽を浴びた、何とも言えぬ充実感に満ちた皆の顔。かけがえの無い宝とは、こういうものを言うのかも知れない。

強い思いを行動で示せば、後輩は黙って着いて来る。その相伝が、伝統と呼ばれるものとなり、クラブの絆を強くし、活気を呼び、やがて人数も増えていくのだろう。われわれは、「団体優勝」への強い思いを伝えて行く事で、それを実現した。強くあらば、伝える思いは何だっていい。いつの時代も、早稲田セーリングが、強い思いをもって、永劫に続いていくことを願う。

 

20065月某日 終稿

 


 

「早稲田セーリング」

 

 早稲田セーリングに入ってもう4年が経った。すでに引退し、僕はOBの一人となってしまった。思えば大学生活は全てがヨット中心で回っていた。ヨットのための土日、ヨットのためのバイト・・・と、ヨットをやることによる大学生活での制限は多々あり、そのために大学の単位を落とすこともしばしばあったが、その分たくさんのことを学び、生き延びるための生命力を得たと思う。ヨットそのものはもちろん、汚い合宿所における虫たちとの共同生活なんかもそうだし、細かいことでは「もやい結び」なんかは一生忘れられないだろう。 

人とのつながりも重要なファクターである。27代の同期は、僕とは性格・趣味・価値観などの全く違う人たちで、言い換えれば、たとえ小学校の同じクラスだとしても多分同じグループには属さないであろう人たちである。この同期とは土日と長期合宿を足すと、3年間のうちのおそらく3分の1くらいは同じ時間を共有していたため、平日にわざわざ大学で会おうとはしなかったが、これからもよき友でありライバルでもある。また先輩方や後輩たち、他チームの人たちとの出会いも僕の大学生活において欠かすことが出来ない。こういう人とのつながりから学んだ事というのは非常に大きい。

 最後に現役に伝えておきたい事がある。それは、サークルという組織は自分達でどうにでも変えられ、やりたいようにできるということ。自分達が築いてきた練習内容や合宿所生活、オフの過ごし方などは正直完璧だとは思っていないので、いい部分は残し、変えるべき部分はどんどん変えていって欲しい。この自由にやれるということが「サークル」のいい特徴だと思うので、常に進化する早稲田セーリングを目指して頑張って欲しいと思う。

早稲田セーリングの今後の更なる発展を願いつつ、結びとしたいと思う。

27代 村上裕哉

 


 

この度は早稲田セーリング30周年記念パーティに来ていただき、ありがとうございます。

現在の早稲田セーリングは数年前と比べ規模が大分小さくなり、大変厳しい状況が続いています。チームの個人個人に掛かる負担も大きく、部員の歩調もバラバラで思えば毎日辛い事ばかりです。

しかし、「ヨットが好きだ」という皆の共通した意識があるからこそ、どんな困難も乗り越えられると信じているし、そこで得られる充実というものは、何にも劣ることのない素晴らしいものだと思います。

4月に幹部となり、先輩方が作り上げてきた早稲田セーリングの伝統をいざ受け取ってみて、それがどんなに大事なものであるかということを日々実感しています。僕は伝統を作り守ってきた先輩方に憧れ、そしてそんな先輩方に少しでも近づけるよう、頑張っていきたいと思います。

最後に、こうした30周年企画に関わってくださった多くのOBの方々に心より感謝いたします。

これからも早稲田セーリングをよろしくお願いいいたします。

29代主将 古島 駿

 

 

 

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